ローマ・デッサン帳

ローマでの生活、見たことや感じたこと、絵本と美術関係の仕事について綴ります。

レオの少年時代の家 そして自分の子供時代のことなど

レオ・レオーニ(リオンニ)は子どもの頃からアーティストになることを

夢見ていました。

生計を立てるために広告デザインの世界に入っていきますが

イタリア、そしてとくにアメリカで

広告デザインをアートの一つのジャンルとして高め、

広告の世界の中に純粋芸術を持ち込み、

ナチズムを逃れてアメリカに亡命した多くのデザイナーとともに

アメリカのグラフィックデザインのクオリティーを高めてきました。

レオ本人のグラフィックデザインの作品は

特にモザイクの技法に対する考察の中から出てきた考え方が応用されています。

週末や仕事の合間には油絵に打ち込み、

だんだんと画家としての自分の姿を仕事と平行して構築していきます。

そして『あいちゃんときいろちゃん』という絵本を出版したことから

絵本作家としての自分を発見し、

アメリカに対するわだかまりにようなものをふっきり、

(妻のノラの父がイタリア共産党の創始者の一人であったことからも

イタリア共産党系の知識人との交流があり、

赤狩りの標的となったり、自分のデザインした

ブリュッセル万博アメリカ特別館の展示が公民権運動に言及したため

シャットダウンされるなど色々なことが重なりました)

子どものための絵本の中で人類に対し発言をしていけるのだという

可能性を見出します。

(絵本という媒体のポテンシャルには驚かされっぱなしです)

50歳になったレオはアメリカでのデザイナーとしてのキャリアに

終止符を打ち、芸術の国、イタリアに戻り、

子どもの頃から思い描いていたアーティストとしての自分の姿を

少しずつ完成させていきます。

 

レオは子どもの頃に目にしたフォルム、テキスチャーを

気味が悪いほどよく覚えていると言います。

幼い頃に頭の中にどんどん作り上げていったヴィジュアルな記憶アーカイヴは

実物を見ないで描くというレオ独自の技法の基盤となっています。

自伝の中やインタビュー、雑誌記事にたびたび登場する

アムステルダムの少年時代の家。

この家を軸として過ごした少年時代の活動や進歩的な小学校教育が

アーティストのレオの形成に大きな影響を与えました。

父親がダイヤモンド細工師から会計士に転向した際に一家は

市立美術館のすぐ近くの、

1902年に建設された赤いレンガの建物の

3,4階と屋根裏にまたがるアパートに引っ越します。 

自伝に写真が掲載されていますが、

住所は美術品コレクターだったレオの大叔父さんのコレクションの

展覧会カタログにて発見することができました。

それは大叔父さんが、前衛絵画作品を購入しては

脱税対策として親戚の家に作品を預けていたからで、

誰の家にどの作品を預けたかを記録した

大叔父さんのノートにレオの家の住所も書いてありました。

Van der Veldestraat 7番地です。

https://www.funda.nl/huur/verhuurd/amsterdam/appartement-87987944-van-de-veldestraat-7-bv/

(改装されたアパートの中の写真を見て

レオがどんな環境の中で育ったか想像することができます。)

レオの家にはなんと、現在市立美術館にある、

ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の元となった

緑色の顔をしたシャガールの大型のヴァイオリン弾きの絵が

預けられ、レオの部屋の外の廊下にかけたれていました。

この絵は自分の物語つくりの源となったと自伝の中で語られています。

https://www.stedelijk.nl/en/collection/753-marc-chagall-le-violoniste

 

小学校教育はモンテッソーリやフレーベルの影響を受けて

科学と芸術を同時に教える学際的なものでした。

レオは自分の部屋にも自然世界を再現したテラリウムをおき、

「自然は芸術の師なり」というモットーがそのまま名前となっている

アムステルダムの動物園と同名の近所のペットショップで購入した

ネズミ、ワニの赤ちゃんなどの小動物を飼っていました。

フレデリックやコーニリアスたち、そしれ彼らの世界は

子どもの頃の趣味や遊びの中から登場したのでした。

レオは小学校の授業で制作した粘土細工のキノコの群像も

『平行植物』を予兆しているかのようだと回想しています。

 

レオは、人間の人物形成にとって12歳までの教育が

圧倒的な影響を与える、と言っています。

レオの子ども時代はまさにそれを証明しています。

これをもとに自分の子供時代のことも考えていました。

考えているうちにその姿を大きく露わにしたのは

やはり自分の通っていたニューヨーククイーンズ区の

教区の小学校の宗教の先生です。

シスター・メアリーアン(80年代に還俗したと聞いています)の宗教の授業は

自分で探求をしていくことを許される自由研究の時間でした。

用意されていたのは神学、ユダヤ人の歴史、キリスト教史、考古学、宗教美術の

イコノグラフィーに関する課題カード。

子どもたちはどんどんカードに書かれた課題をこなしていき、

作文を提出したり、オーディオ教材を聞いて

質問に答えていくのでした。

美術史の研究者の端くれとしての自分の形成期はここにありました。

同じクラスにいたインド系のミタもフランス宗教史の研究者となり、

現在ヴァッサー大学で教鞭を執っています。

背景には土曜日の日本語教室やピアノのレッスン、

(奥村先生、すばらしかったです。)

妹と弟に毎晩語ったジェニーとチャーリーという架空の兄弟の冒険物語、

そしてどの日本の銀行主催か忘れましたが

毎年ニューヨークの日本人学校が対象となっていた絵画コンクール。

これには毎年作品を提出していたのですがなかなか入選できず、

いつものクレパスではなく水彩画を使ってみたらやっと入選でき、

とてもうれしかったのを覚えています。

教区の学校では実践的な美術教育は皆無で、

使ったことのなかった水彩絵の具を

(クレパス感覚で)油絵の具のように使ってテラスから見える風景を描きました。

ニューヨーク在住の画家であった日本語教室の斉藤先生に、

「いやあ、ずいぶんと塗り込んだねえ」、とコメントされ、

顔が真っ赤になったのを覚えています。