ローマ・デッサン帳

ローマでの生活、見たことや感じたこと、絵本と美術関係の仕事について綴ります。

ローマ 塩の道をたどる

先週は友人の、ジャーナリストである叔父さんと叔母さんとともに
ローマの塩の道をたどり、
おかげさまでとっても壮大なロマンのようなものを久々に味わった。

テヴェレ川の流れに逆らって船で塩を運ぶのは
大変な作業ではあったのだろうが、
現在国際空港のある近くのオスティアにて製造された塩が
テヴェレ川をさかのぼって、
または陸路でオスティア街道を通って市内を抜け、
サラリア門からサラリア街道を経てローマ人と交易をしていた
サビーナ人たちの住んでいた北のほうへと向かっていく、
その動きを想像するだけでも面白く、
まだ実際にだとるというのは一つの冒険のようでもある。

テヴェレ川の河口に近いスティアには、
古代ローマの港街、オスティア・アンティーカの遺跡がある。
海岸線が後退したため、現在は内陸よりに位置しているが
昔は海に面していた。
また、昔は街に沿って川が流れていたのだが、
塩の流通を最適化するために、テヴェレ川の流れの一部が
変更されたということである。

イメージ 1
上の写真は法王ユリウス(ジュルオ)2世の建てたオスティア城、川がすぐ横を流れていた


ピラミッドのあるサン・パオロ門からは電車が一時間に
3.4本あるのでとっても行きやすく、
オスティアの街からローマに毎日通勤している人たちは非常に多い。
鉄道はオスティア街道に沿って海に向かって走っている。

オスティアではローマ建国以前の古代から塩が生産されていた。
港に近い湿地帯や、沿岸の潟、
とくにStagno di Ostiaと呼ばれていた地帯には
修道院の所有していた塩田がたくさんあり、
テヴェレ川の両岸にて19世紀の初頭まで製塩業が行われていた。

製塩業が衰退すると、あたりは荒廃して
マラリアの多発する不健康な地となってしまった。
19世紀末頃、オスティアをはじめ、
ティレニア海岸沿いのポンティーナの湿地帯を灌漑する
下請け業者が募集され、エミリア・ロマーニァ州の
ラヴェンナの労働者組合がオスティアの湿地帯を灌漑することになった。
1882年11月、500人の男性、50人の女性労働者が
ラヴェンナからオスティアにやってきて作業を開始。
現在、オスティア・アンティーカの駅を降りたところの
オスティア街道に平行した道が「ロマーニャ人の道」、
と呼ばれているのはそのためだ。

Cf:



駅を降りてすぐに見えるのは
15-16世紀のボローニャ人にとってはにっくき
教皇ジュリオ2世の建てたお城。
城壁内の町並みはとてもかわいらしく、
猫がたくさんいた。
お城のすぐ近くに「塩田の道」と呼ばれる長い道があり、
お城の周りの塩田を想像してみた。

イメージ 7


オスティアの古代ローマ時代の港町の廃墟の中にある
博物館には、出土した彫刻などが展示されているが
この建物はルネッサンス時代に建設された
塩の倉庫だったということだ。
古代ローマ時代の塩田に関する発掘はまだ現在進行中で
一般に公開されている発掘現場にはあまり
その形跡を見ることはできない。
見学中には考古学者の説明を聞きながら遺跡を歩き回る
地元の中学生のクラスに出会い、
先生に話しを聞いてみると何と、
ローマの他の中学校に配る、オスティア・アンティーカの
ガイドブックを作成するための調査に来たのだと言う。
考古学者のおじさんは、古代ローマのある煉瓦製造工場の
馬蹄型の刻印のある場所などを見せてくれたり、
なんだかとってもおもしろい説明をたくさんしていたので
きっと楽しいガイドブックになること間違いなしだ。

遺跡見学後、オスティア街道に沿って走る鉄道に乗り、
もと塩田だった地帯を通ってローマに入り、
塩の入った袋をたくさん積んだ荷馬車が
サン・パオロ門をくぐり抜けるところを想像しながら
マルモラータ通りを歩き、昔塩が船から下ろされる
「マルモラータの港」のあったテヴェレ川沿いに至る。
オスティアで生産された塩は
ローマ市内に運ばれてからは現市役所の地下のTabularium
収納されていたそうであるが、
17世紀に入ると教皇ウルバヌス8世の命令により、
塩の倉庫はテヴェレ川に沿ったところの、
アヴェンティーノの丘のふもとに移されたということだ。

イメージ 3
上の版画は17世紀初頭のもの。麓に港のあるアヴェンティーのの丘を、対岸から臨む。

 Gasparvan Wittel(Vantitelliヴァンヴィテッリ)という
オランダ人画家による、
『塩の到着』という1685年、86年の2枚の絵に
倉庫と思われる2階建ての建物が右側に見える。

イメージ 2
cf:

また、EttoreRoesler Franzという
19世紀の画家の水彩画に見られるように、
このアヴェンティーノの丘の麓に沿った
真実の口のある教会に至るテヴェレ川沿いの道は
ヴィア・サラーラ(塩の道)と呼ばれていた。
サラリア街道はここで始まり、サラリア門を通って北上していたのだ。
堤防ができてから、景色はずいぶん変わってしまったが、
当時の様子を多少しのぶことは可能だ。

イメージ 4
むかし

イメージ 5
いま
消失点をたどって行ったところの、三角の道路標識の隣に
うっすらと見えているのは真実の口の教会の鐘楼


昔のヴィア・サラーラからバスの乗って
サラリア門のあった地区に移動。
サラリア門はイタリア統一戦争のときに砲丸が当たって
破損し、結局取り払われてしまったが、
(どうやら、砲丸のめりこんでいるのが
見られるところがあるらしい。
今度見に行ってみよう!)
門のあったところのすぐそばの城壁の近くに
門の基壇の一部が保存されている。
11歳のときに亡くなってしまった天才少年詩人の墓碑が
門の近くに設置されていて、
本物は市役所宮殿のカピトリーナ美術館にあるそうなのだが、
基壇の近くにそのレプリカを見ることができる。
アッピア街道やその他の主要な街道がそうであったように、
サラリア街道も城壁外を出ると、お墓がたくさん並んでいた。
街道を郊外に向かって歩いて行くと、
プリシッラのカタコンベという地下墓地もある。
以下の18世紀、ジュゼッペ・ヴァージの版画に見るロバたちの背には
塩が乗っかっていたのだろうか。

イメージ 6