ローマ・デッサン帳

ローマでの生活、見たことや感じたこと、絵本と美術関係の仕事について綴ります。

イタリア児童文学史ーイメージの領分ー概観の試み その1

0)児童文学の誕生

イタリアにおける児童文学は1837年、パラヴィチーニLuigi Alessandro Parravicini の『ジャンネット』Giannettoという、ある少年の産業社会における立身出世を語った教科書の中で定義された。子どものための本とは、社会的、道徳的モデルを子どもたちに提示し、同時に百科事典的な、便利な書物でなければならない。 教科書として用いられたこの本は69もの版を重ね、 彼に続く児童文学の作家たちにとって、模範的な作品として崇められた。またカントゥCesare Cant?? (1804-1895)の「分かりやすい」言葉で書かれた一連の書物は下層階級に伝統的な価値観の大切さを教え込むために広く利用された。イタリア統一後、教科書は理想のイタリア人を作り上げるための道具として注目され、文部省でも「適切な」教科書や読み物を選定する委員会が設けられた。委員会により、「勧められない」教科書の例として挙げられたのは『ピノッキオ』の作者であるコッローディの執筆した『ジャンネッティーノ』Giannettino(1876年)。これはユーモアにあふれた文体で書かれ、「脱規範」を目指した教科書の最初の例だった。

教科書出版を始め、出版全般に力を注いだのはフィレンツェであった。イタリア統一後もフィレンツェ出身の政治家たちの活躍が目立ったが、出版を通して伝統保持に向けての民衆教化ばかりではなく、イタリアの文化的支配への手がかりになるという意識が見られた。これらの出版社の中で、もっとも幅広い出版活動を行っていたのはサラーニである。サラーニは創立当時から消費性の高い文学に目を向け、フランスの影響によりイタリアにも普及したフイユトン(新聞の連載小説)のジャンルに属する大衆小説やいまで言う新聞の3面記事に載る事件を語った小冊子なども多く出版した。サラーニは子どものための本の領域に勧善懲悪のフイユトンの世界を持ち込んだことで知られている。(Le Monnier高尚な作品, Paggi教育関係中心, Bemporad, Barbera'科学の普及 )

1)民衆画の流れを引くイメージの領分
教育的視点を見失わぬよう、慎重に執筆された子ども向けの作品には挿絵が添えられたのであるが、その挿絵を描いたのは、民衆版画、星占いなどを載せた暦書、民話、人形劇などに見られるイコノグラフィーの世界を継承した画家たちであった。中にはフイユトン小説の挿絵も担当している者もおり、子ども向けの本の挿絵が結果として編集者や文章を書いた作家たちの教育学的な思惑とは異なるものに仕上がっている場合が多かった。(イタリア児童文学のイメージの領域の研究を専門とするAntonio Faetiは、この時代の挿絵画家たちのことをイラストレーターとは呼ばずにfigurinaioという名称を与えている。Antonio Faeti, Guardare le figure. Gli ilustratori italiani dei libri per l'infanzia, Torino, Einuadi, 1972 はイタリア初期のイラストレーションに関する本当にすばらしい研究書である。)
例えば、トスカーナ南部、カゼンティーノ地方の民話や迷信がベースとなっている
エンマ・ペローディ(1850-1918)の創作童話集Novelle della nonna(1892年)。内容もさることながら、挿絵のほうも時間外に位置する民衆の幻想世界に属するものであり、残酷で悪魔的なものを隠さすに描いている。
(Faetiにより「再発掘」されたペローディのこの作品は現在、エイナウディ社にて再版されている。)