ローマ・デッサン帳

ローマでの生活、見たことや感じたこと、絵本と美術関係の仕事について綴ります。

2010年 12月1日 雨のち晴れ、マリオ・モニチェッリ氏よ、さらば。 Un saluto ad un grande uomo

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夜,夫の携帯に届いたメッセージ、映画監督マリオ・モニチェッリ氏
95歳、サン・ジョヴァンニの病院の5階から投身自殺。
自分で自分のことを始末するとは
最後の最後までこの人はなんという勇気、dignityを持った人なんだろう、と
翌朝、同僚の女性たちも目を丸くする。
ラジオでも一日中、モニチェッリの話題があらゆる角度から取り上げられていた。
とてもポジティヴな人だったので、多くのイタリア人に愛されていた。

本日10時、友人ルチャーノとともに
モニチェッリ、愛妻キアーラと娘さんのくらしていた
コロッセオのすぐ近くのモンティ地区の「広場」(といえばPiazza Madonna dei Monti
のこと)に向かった。
途中で同じ地区に住む女優の友人と落合い、
モンティに別れを告げるモニチエッリを乗せた霊柩車を地区の人たちと待った。
本物のローマっ子に未だに出会えるモンティ地区を描いたモニチェッリの
ドキュメンタリーにも登場するパン屋さん、車の修理工、お肉屋さんもいるわ、
と友人に教えてもらう。
霊柩車の通るセルペンティ通りのお店の多くが喪を表すため、
シャッターを途中まで閉めてあったり、完全に閉めていた。
霊柩車が広場に入ってくると、楽隊がBella Ciaoを演奏。
これはエミリア・ロマーニャ州起源のナチス、ファシストと闘った
パルチザンたちの解放の戦歌、1968年の学生運動では共産党、
無政府主義社の歌。モニチェッリの支持した
左派と今でも深いつながりのある歌だ。
(息子の中学のオーケストラが現教育相の出席した公式の場で
生徒の意志により、この曲を演奏したことにより
大変な騒ぎとなった曲である。)
盛大な拍手が沸き起るとともに、
この曲を耳にして非常に嫌そうな顔をしながら広場を去って行った人たちもいた。

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たくさんの人々に囲まれたキアーラを見つけ出す。
その毅然とした姿、娘さんの笑顔に胸を打たれた。
霊柩車は10時半過ぎにモンティを去り、ボルゲーゼ公園の
「映画の家」に向かった。「映画の家」では12時からの告別式。

広場を離れ、Via del Boschettoの角を曲がると
何日も見ていない気がする
太陽の光が一瞬雲間を差し、石畳が光り、思わず皆で声をあげてしまう。
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モンティのカフェでカプチーノを飲み、
友人たちとモニチェッリの映画について話し合う。
モニチェッリの1958年のI soliti ignoti(邦題:『いつもの見知らぬ男たち』)は
イタリアの喜劇映画の最初と言われている。
モニチェッリの映画はとくに普通の人たちのおもしろおかしさ、人間の性が
皮肉もまぜて、悲劇的に喜劇的に描いている。
とくに大の大人が悪戯に趣向を凝らすAmici mieiという映画のシリーズが観たくなった。

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同僚ピーナが遅れてやってきたので
「映画の家」まで一緒に脚をのばしてみた。
こちらの「正式な」告別式には公共放送RAIのトラックがたくさん来ていた。
農家の建物を改装した映画館の中に入って行くと、
スクリーンの下に棺が安置されており、
報道陣がそのまわりをがたがたと何か大声でしゃべっている。
これは本人が棺をうちやぶってsupercazzola(Amici mieiの悪戯男たちが
発するノンセンス言葉)を飛ばし始めるのではと思ったほど。
それとも勝手におやりください、という感じだろうか。
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「映画の家」の前の野外シネマ。
空白の画面の上を秋の風が吹き上がって行く。