ローマ・デッサン帳

ローマでの生活、見たことや感じたこと、絵本と美術関係の仕事について綴ります。

イタリアの小都市巡り サン・マルティーノ・アル・チミーノ 女傑ドンナ・オリンピアの夢 San Martino in Cimino

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ローマの郊外にあるラツィオ州の小都市は
トスカーナやウンブリアの街と違って
どことなく荒れ果てた感じのする街が多いのですが、
それは都市計画とか景観に対する配慮があまりなされないまま
70年代にぼこぼこと建設されたあまり美しくないアパート群らが
歴史的中心街の中まで浸透していたりするからなのだと思います。

その中で、ヴィテルボ県の小さな街々はなかなかよいのです。
チミーノ山、カルデラ湖であるヴィーコ湖に近いサン・マルティーノ・アル・チミーノも
その一つです。

上に見られるのは古い写真ですが
中世期の修道院を囲って馬蹄型の街の形が見られます。
これは自分の義兄、法王インノケンティウス10世にその領主に任命された
ドンナ・オリンピアの発注による、軍事関係の建築家、マルカントーニオ・デ・ロッシの
(フランチェスコ・ボロミーニもコンサルタントだったそうです)
都市計画の結果、生まれた形なのです。
17世紀前半の当時としては実験的な計画で、イタリア初の「集合住宅」だと言われています。
ドンナ・オリンピアは街の人々にこれらの住居を与え、
街の娘たちには結婚用資金を提供し、
ローマでは女性の身でありながら政治的闘争に参加する悪女として
恐れられ、痛烈に批判されていたにもかかわらず、
この小さな田舎町では愛されていたということです。
修道院横に見られる真っ白な建物は彼女の宮殿です。





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サン・マルティーノ修道院のファサードです。
灰色の部分はヴィテルボ県に特有な灰色の凝灰岩、ペペリーノ(ピペリーノとも言う)。
(この地方の街が黒っぽく見えるのは、この建築資材のせい)

ファサードを支えるようにして両側にそびえたつ二つの塔は
ボロミーニにより、付け足されたものです。
支えているように見えると書きましたが、実は文字通り支えているのです。

この教会は、実は倒れそうになっていたのです。

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柱もちょっと曲がっています。
壁も垂直ではないので、ちょっと怖いです。

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倒れそうになっていた原因はこれ。

薔薇窓がなければならないところに
明かりをたくさん入れるアーチ付きの美しいゴシックの窓があります。
(上のファサードの写真の裏側の、つまり教会の中から撮った写真です。)

シトー派修道会の建築基準で
薔薇窓を義務づけられていたところに
この斬新なデザインの窓をつけ、注目されたのはよかったのですが
なんと、ファサードを軽くしてしまい、
両側の壁を支える力が足りなくなってしまったのです。
当時の建築家は教会の壁の上の方の石材にもっと軽いものを
用いることにより、ファサードにかかる負担を軽くしようとしたのですが
それでは問題が解決しきれず、17世紀に修復が必要になりました。
(上の写真の、右側のアーチの上のほうは、灰色のペペリーノとは違う石が
積み上げられています。
石の色の違い、見えますでしょうか。)

二つの塔を使ってファサードを助けるアイディアは
フランチェスコ・ボロミーニによるものなのです。

ここでもボロミーニの「作品」に会うことができ、嬉しかったです。


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馬蹄型の集合住宅、テラスハウス、というのでしょうか。

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アルガルディによる野望に満ちたドンナ・オリンピアのバスト。
本当は修道院に入れられるところだったのですが
その運命を変えるために
自分にあてがわれた担当の神父に性的暴行を受けたと公言しました。
そして資産家の男性と結婚し、3年後に夫が亡くなると
今度は経済的に困っていた貴族、31歳年上のパンフィリオ・パンフィーリと結婚し、
貴族の称号を得ます。
そしてその政治的権力を行使して義兄を法王にしてしまったというのです。
年上の夫とよりも、法王との仲のほうがよかったようで、色々な噂があったそうです。
「女教皇」とも呼ばれていたくらいです。

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1月7日、インノケンテヴィウス10世の命日の夜中に、
悪魔たちがオリンピアを地獄に連れてゆくために
火のついた馬車に彼女を乗せて
パンフィーリ家のヴィラの近くの道をかけてゆくのが見られるという
言い伝えがローマにありました。
女性にとっては、たくさんの「罪」を犯さないかぎり、権力を握ることのできなかった時代です。

オリンピアは黒死病で亡くなり、
サン・マルティーノ教会の主祭壇の前に葬られました。