ローマ・デッサン帳

ローマでの生活、見たことや感じたこと、絵本と美術関係の仕事について綴ります。

イタリア,コメディー映画大流行!!

イタリアのテレビドラマは残念ながら、最近は
日本テレビの『電波少年』に遡るようなフォーマットのリアリティーショーや
首相のスキャンダルをテーマとしたトークショーに押されて
視聴率がとれず苦戦している。
夫の仕事柄、アメリカやイギリスのドラマを多く視聴する機会に
恵まれているのだが、
物語のおもしろさに関していえば、比べ物にならない部分がある。
また、演技や詩情性、衣装、今まで映画に費やされていた才能が
最近アメリカではデレビで発揮されていて、
映画よりもテレビドラマの方がおもしろいという傾向がある。

テレビドラマの視聴率ががくっと落ちる一方で今イタリアでは
イタリア人コメディアンによろうコメディー映画が大ヒットしている。
それはもちろん、モニチェッリなどによる辛辣な、
ある意味で哲学的な種類のものとは少し違う、
陽気で楽観的な、小学生低学年の子どもたちにも楽しめるような
分かりやすい、実生活に根ざしたものだ。
悪く言えば、「子どもじみている」ということになろうが、でもそのどんな小さなことでも
おもしろおかしなジョークに変換しておちょくってしまう「遊戯性」が
イタリア人、特に男性の長所でもあるような気がするのである。
(女性4人の我工房のマウリーのおちょくり技術もしかし壮絶だ。
今朝も携帯に凄いのが一発来ました。
日本語にはちょっと訳せないけれど・・・。)

コメディアンが主役であるという点に関しては
イタリアの「伝統芸能」、コンメディア・デアルテを思わせる。
この演劇は人物たちのジャンル(maschera, 仮面)が決まっていて、
物語の筋はこの決まった人物たちの絡み合いによって展開される。
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代表的な「仮面」、アルレッキーノ(ずる賢さ)とプルチネッラ(純真)

この技法は今でも受け継がれているような気がするのである。
イタリアの俳優は、監督兼俳優のナンニ・モレッティについても言えると思うのだが、
ある決まったタイプの人物を演じていることが多く、
それはその人そのままだったりする場合がある。

先週、ブリッツィという売れっ子監督の新作、Femmine contro Maschi
(女子対男子)のお披露目を観に行った。
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これはMaschi contro Femmine(男子対女子)の第2部なのだが、
こちらの出来映えはなかなかのものであった。
なんといっても、コメディアンであるフィカッラとピコーネFicarra e Piconeという
二人組の起用が大成功している。
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特にフィカッラ(髪もじゃのほう/プルチネッラ的人物?)のエネルギーは映画全体に広がりを見せる。
ぜひ、ライヴで彼を見てみたいという気にもなる。
女性陣では同じくコメディアンのリティッツェットLuciana Littizzettoが輝く。
サッカー気違いで浮気もしていたガソリンスタンド勤務の旦那さん(アルレッキーノ的?)が
若い女性にみとれて頭を柱にぶつけて記憶喪失になったのを利用して
自分の理想の男性に自分の夫を「初期化」しようと頑張る。
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もちろん、コメディアンではない俳優も混じっているのだが、
やはりここでも思ったのがイタリア演劇のある種の「特徴」。
少女漫画の『ガラスの仮面』の主人公である北島マヤのように
(スタニスラフスキーのメソッドだ)内面からある人物を演じるのではなく、
観客にも馴染みのあるある人物の「仮面」をかぶり、
観客にも了解されている共通の記号のコードにのっとって演技を展開する。
だから演技だけをみていると、
アメリカやイギリスのドラマや映画に慣れているものにとっては
どうしても表面的に感じられてしまう。
しかし最近やっとのこと、「視点」を変えて見れるようになったのだ、と思う。
やれやれ。