ローマ・デッサン帳

ローマでの生活、見たことや感じたこと、絵本と美術関係の仕事について綴ります。

ボローニャ国際絵本原画展 取材雑記 その1


今年のボローニャ国際絵本原画展も非常に興味深い
ラインアップとなりました。
こちらのコンクール形式の展覧会は
絵本の世界に携わりたいイラストレーターにとっては登竜門。
毎年世界中から3千人以上のイラストレーターたちが
5枚の作品を応募します。

2019年版はこの展覧会の日本巡回展の幹事館である、
東京板橋区立美術館のリニューアルオープニングを
記念する展覧会となります。
板橋区立美術館は、現在副館長であるキュレーターの
松岡希代子さんの長年にわたる活躍のおかげで
日本のイラストレーターたちにとっては世界の絵本動向に
直に触れることのできる一つのセンターとなっています。

巡回館では1996年頃から、国際絵本原画展の主催者である
ボローニャ・チルドレンズ・ブックフェア会場での
国際絵本原画展の様子を伝えるドキュメンタリーヴィデオが
見られるようになりました。
ヴィデオ制作のおかげで、毎年総入れ替え制の審査品の人たち、
ブックフェアを訪れた入選者たち、
世界の編集者たちに取材をし、
絵本の世界的な動向や、絵本出版に関する問題提起をとらえ、
ブックフェアのマネージメントにも細かいフィードバックを
することが可能です。

映像自体は25分程度なので、日本人の入選者で
ボローニャにいらっしゃる方がとても多ければ
特別なルポルタージュを組み込むことは難しいのですが、
今までに制作されたヴィデオの中で一番気に入っているのが
多分2007年版で、ここでは自分で音楽も作り、
ボローニャ郊外のピアノ―ロに在住する日本人イラストレーターの
よっちさんにボローニャの街をスケッチしてもらうという
企画を組むことができました。
この年は大好きなヴォルフ・エールブルッフにもインタビューを
した年だったと思います。
今までに一番印象に残ったのはアンソニー・ブラウンとの出逢いでしょうか。
カップルで入選した二人の作家のボローニャ見本市
プロジェクト持ち込み日記というのも昔組み込んだこともあります。
二人の入選作品は審査の時からイタリアの審査員に気に入られていたのですが、
その審査員の出版社に持ち込みをした翌年に出版され、
今でもイタリア語で出ている日本民話絵本の中で
最も素晴らしいものの一つです。

D.Longaretti, M.Tazumi “Urashima Taro”, Orecchio Acerbo, Rome 2009

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確か1998年頃からでしょうか、国際絵本原画展の審査を
取材してもいいかどうか聞いたところ、
はい、もちろんいいですよ、とさらりと言われて
びっくりしました。
イタリアでは中学の卒業試験からして一般公開されるので、
審査に人が立ち会うのはある意味で当たり前であると
考えられているようです。
今までの3日間にわたる審査課程の取材の中で、
カメラはお断り、と言われたのはたったの一回でした。
審査過程を観察することにより、
審査員それぞれの個性、イラストレーションに対する
考え方にも触れることができるので、
とても刺激になります。

審査員同士が恋に落ちる、という事件も一回ありました。
特に男性のほうが審査中にも彼女から目が離せなくて
大変だったのを思い出します。

今年は松岡さんの発案により、ブックフェアにおける
日本ということで取材をしてみました。
ボローニャを拠点とするキラキラ出版のエレナ・ランバルディさん、
フランスで五味太郎さんや岡田千晶さんの絵本を出版している
日本がテーマのノビノビ!出版を立てた若い編集者たちに
インタビューをしました。
そして日本からはブロンズ新社の若月眞知編集長に取材。
ブロンズ新社で出版された、五味太郎さんの絵本、
TUPERA TUPERAさん、ヨシタケシンスケさんの絵本は
世界中で出版されています。
ヨーロッパには今、日本ブームがあるのですが、
絵本に関して言えば、日本的だから興味が持たれているのではなく、
絵本を作る日本人作家や編集者たちが
子どもの目線を大切にし、
あらゆる世代が共有できるものを作ろうとしている、
そういう姿勢が明らかになりました。
また、ヨーロッパの大人や子どもにとって
日本はものの見方やもののとらえ方の全く違う
不思議な国なので、とても惹かれているのだと。
今までとても表面的だった知識や情報が、
どんどん正確に伝わるようなり、
日本文化や日本の精神性は日本人だけのものではなく、
世界に共有されるものになりつつあるのだという
感触がつかめました。
(それはマジンガーのアニメとポケモンに発祥が
ありそうです。文学では吉本ばななにはじまり、村上春樹を経て。)

世代にわたって日本が楽しめる本の一つの例が今年、
イタリアのモンダドーリ・エレクタ社から出版された
全頁イラスト入りの「ジャッポマニーア」。
日本の観光スポットだけでなく、日本の習慣やタブー、伝統が
分かりやすく、面白く紹介されていて、
子どもにも大人にも大人気なのだそうです。
イラストを手がけた作家は日本に行ったことのある
イタリア人女性で、旅行の時に行く先々で
スケッチ日記を描いていました。
スケッチは参考資料としてとても役に立ったけれど、
女性の座り方とか、おじぎの仕方、
大きい声でしゃべると白い目で見られる、空気を読む、などの
文化的側面は全くつかめていなかったので、
本のプロジェクトに携わることによって
違った意味での「日本旅行」ができたと、
とても喜んでいました。

M.Reggiani, S. Ferrero, "Giappomania", Mondadori Electa, Milano 2019

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Sabrina Ferrero, illustrator 
この絵本プロジェクトの色の選択には
フランスで出版された色がテーマのカタログ
「コロラマ」のお世話になったとも
語ってくれました

イタリアでつげ義春の作品を中心に出版している
ローマの出版社の編集長にも会いました。
今までフランス語や英語版しかなく、
ようやくイタリア語で読めるようになりました。
カニーコラ出版はローマベースの小さな出版社。
子供向けの漫画絵本も出版しており、
その中の一冊の原画を今年の国際絵本原画展に
応募した作家がいたのですが、今年入選し、
しかもアンダー35歳を対象としたボローニャSM財団国際出版賞を受賞。
賞金の他に、この賞をブックフェアと主催している
スペインのSM出版と絵本を作りことになり、
その新しい絵本の原画の展覧会が
ブックフェア期間中に国際絵本原画展と同じ会場の中で
開催されます。
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こちらが受賞したSara Mazzettiの子どの向け漫画、
「エルセの宝石」
SM財団の賞の審査員はベルギーのクラース・フェアプランケ、
人気絵本作家ベアトリーチェ・アレマーニャなど。
今回ベアトリーチェともたくさんお話できたので
よかったです


さて今年の審査員です。

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今回インタビューにも登場していただいた
韓国のイ・スンヒさんの作品を審査する審査員たち
神秘的な世界が描かれているという評でした

フランスのALBIN MICHELで斬新な絵本のシリーズを手がけている
ベアトリス・ヴァンサン。
子どもの視線を大切にしたいい作品をたくさん選んでいる一方で、
全く他の作品とは異なる、不思議なものを選んでいました。
彼女がオランダのハリエットさんとともに
日本の間中ムーチョさんの作品を選び出し、
他の審査員が反対する中、今回の展覧会にいれるべきだと主張。
パリで見た日本のart brut の展覧会を見たばかりで、
そういった表現も子どもの絵本に必要であるとのことでした。
日本で『レナレナ』の絵本で知られるハリエット・ヴァン・レーク。
絵本作家であるばかりでなく、アーティストでもある彼女は
力強いブラッシュワークの作品をたくさん選び出していました。
文字と絵をテーマに作品を作っていて
言葉の「感情を描き出すことのできる」書道にとても興味を持っているとのこと。

イタリア人作家のアレッサンドロ・サンナさんもハリエットさんのように
国際絵本原画展に入選している作家です。
しかし、最近、入選できなかったので
審査が一体どうなっているのか知りたいという気持ちを伝え、
審査員ににも抜擢されたとのこと。
作品をとにかく丁寧に見ていましたし、
誰も気づかなかったような個性的な作品を
たくさん入れていました。
今回入選できませんでしたが、前にも入選した
アメリカ在住の日本人イラストレーターの作品が
イタリアの作家、グラーツィア・ニダージオの筆さばきを
彷彿とさせる素晴らしいものだとコメント。
日本人作家のシンプルで詩情的な作品にもとても惹かれていました。

アルゼンチンで革新的な出版社もやっている
ディエゴ・ビアンキさんは、カラフルで表現豊かな作品を
選んでいました。
ハリエットさんは、北ヨーロッパから来る自分とマチエイさんだけが
色の地味な、物静かな作品を選ぶ傾向があり、
ラテン系のアレッサンドロとディエゴが幸福感にあふれる
色鮮やかで賑やかな作品を好んで選んでいると、指摘していました。
ディエゴさんのペケーニョ出版の開催するワークショップは
コミュニティーとしての一体感を高めるものが中心です。
本作りは一つの民主主義的な行為なのだと伝えています。
今回のヴィデオの中でも、若いイラストレーターたちは
デジタルで作品を作る人が大半で、
応募作品の中にも手描きのものがどんどん減っていると
危惧していました。
ベアトリスさんも言っていましたが、
ソーシャルネットワークの効果で
世界中のイラストレーターが同じような作品を作るようになっています。
それは使う道具もおなじでスキャンナー、プリンターもどの国でも
同じであるということも影響しているようです。
作品がみんなスキャンナーに収まるサイズで
展覧会として作品の輸送や額装には実に便利ですが、
素材感のある生の作品の持つ力強さは、
プリントアウトされたものと比べると、より雄弁です。
ディエゴさんは、日本人の応募者は手描きの作品を
送って来た人が多かったと指摘していました。

審査員のディエゴさんは
今年の板橋区立美術館夏のアトリエの講師です
見たものの記録やスケッチから絵本のアイディアを抽出する方法について
一緒に考えます

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これがディエゴさんの持ち歩くスケッチ帳
すっかり二重あごを描かれてしまいました

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アルゼンチンの街で拾った色んな紙くずも貼り付けられています
日本でやるワークショップに参加する
日本人アーティスにも面白いゴミを拾ってほしいですと最初
おっしゃっていましたが
日本の街にあまりゴミは落ちていませんね


以下のアドレスで、ペケーニョ出版の主催する
絵本制作ライヴのワークショップのヴィデオを見ることができます

元カゼルタ宮殿美術館館長、フェリコーリ氏の革命



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1952年生まれ、ボローニャ出身のマウロ・フェリコーリは、2015年に当時の文化財省長官のダリオ・フランチェスキーニの改革によるイタリアの主要な文化施設の館長の公募試験に受かり、今年の10月31日までナポリ近郊のカゼルタ宮殿(レッジョ)の館長を務めました。
カゼルタ宮殿はナポリ王カルロ7世により、ヴェルサイユ宮殿を意識して建設された、ヨーロッパで最も大きな宮殿です。1997年にはユネスコ世界遺産として登録されました。
フェリコーリが館長となってから、世界遺産でありながらそれまですさんだ状態にあった宮殿は完全に生まれ変わり、見学者は毎年増え続け、2019年には年間合計100万人に到達するだろうと言われています。就任直後、宮殿の労働組合によって「この館長は働きすぎるので大変困る」と訴えられたことにより、フェリコーリはこの美しい宮殿に対する深い愛情を原動力に、南部の難しい社会的状況に挑む館長としてイタリア全国で有名になり、宮殿そのものの知名度も高まりました。フェースブックでも33万人以上のフォロワーを誇り、フェリコーリ自身も2万6000人のフォロワーがいます。フェリコーリはツイッターやフェースブックなどのソーシャルネットワークによって抽出されたデータを元に宮殿の改革を展開し、見学者の満足度を高めて行ったことでも知られています。2018年4月の調査で宮殿は、世界の美術館見学者ランキングのトップ100に入り、イタリアでは国立美術館のトップ10に入りました。

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イタリアの芸術新聞、「アートリビューン」によると、フェリコーリがこの3年間に達成した重要は事業の中で、特に以下の20項目が大切なのだそうです。(この記事の執筆者自身のコメントも交っています。)

1)宮殿の施設、庭園の修復と定期的なメンテナンス
老朽化していた宮殿そのものの建物の修復、宮殿の敷地内の空軍の施設を展示会場として改装、庭園の修復、イギリス庭園の植物の手入れ、温室を文化施設として蘇らせるなど、レンツィ首相政権下に推進された、モニュメントを文化施設、教育機関として再評価していく政策に沿って宮殿の再生を図りました。
また、過去30年間、行われていなかった定期的なメンテナンスを可能にしました。
イタリアの文化機関が不得手とするメンテナンスに特に注目したことにより、観光地としての人気を更に高めたのだと思われます。おかげさまで、広大な庭園の美しさを存分に楽しめるようになりました。
2)宮殿内の保管されていたコレクションの常設展示を可能に
1980年のナポリ大震災後にルーチョ・アメリオによって収集されたイタリア現代美術のコレクション、ウォーホール、シュナーベル、オンターニなどを含む72作品による「テッラエ・モートゥス」は、1992年に宮殿に寄贈されましたが、展示スペースの不足により、展示されていた作品はごくわずかでした。空軍の施設を展示スペースに改造することにより、2020年にはほぼ全作品の展示が可能になります。
3)ヴァンヴィテッリによって1753年に総設計された宮廷劇場の修復
イタリアの観光をプロモートするツーリング・クラブ協会の協力を得て2017年に修復が完成しました。金、土、日の午前中に見学が可能です。
4)館内職員のチーム意識を高める
職員は今まで私服だったのですが、青字に宮殿の設計図を元にした金色のロゴ入りの制服が今年採用されました。
5)2019年から館内全体にWi-Fi
フェリコーリは、契約を得た下請け会社に対する慎重なコントロールを義務つけています。R.T.I Tim-cial社は契約開始日30日以内に、約270,000ユーロの予算で館内Wi-Fiを整備することになっています。 
6)イースターの連休も開館
25年間にわたり、復活祭の翌日の月曜日、つまりパスクエッタの日は休館だったのですが、イースターの連休に宮殿を開館することにより、連休中の見学者数は大幅に増加しました。もちろん、パスクエッタには欠かせないピクニックやボール遊びは禁じられていますが、街の「城壁」の外の田園地帯に遊ぶのが恒例のパスクエッタを、広々とした宮殿の庭園で過ごすという新しい伝統が地元でもできつつあるのではないでしょうか。
7)休館日、火曜日の斬新的な利用方法
恐らくフェリコーリが退官してから廃止されるだろうと言われている実験の一つです。フェリコーリは休館日を利用して、美術館の利用法の新しい実験を展開してきました。美術展を企画する外部の団体への展示スペース貸出しもその一つです。火曜日は、旅行代理店やその他のプライヴェートな団体の要望に答えて、団体見学やイヴェントを行って来ました。これらの実験的な活動は、コストの負担を全く伴わないものでした。
8)ソーシャルネットワークを最大限に利用した発信
フェリコーリ自身のプロフィールがベースとなった宮殿のフェースブック、インスタグラム、ツィッターのページは、随時宮殿の最新情報やイヴェントのライブ映像、見学者の撮った写真を発表。カゼルタの街とその周辺の最新情報も合わせて発信することにより、地元との関係も強化されました。
9)ナポリ=カゼルタ間の距離を縮める
イタリア国鉄の協力を得て、レッジャ・エキスプレスという、ナポリ=カゼルタ間をノンストップで走る特別急行を企画。客車は1930年代、1950年年代のもの。機関車も当時のもの。毎月第2日曜日の運行。鉄道ファンには夢のような企画ですね。
10)宮殿へのアクセスを強化
地元のバス会社、及び高速鉄道イタロを運営している会社と契約し、ナポリからのアクセスを強化。ザハ・ハディドのデザインしたナポリ郊外アフラゴラの高速鉄道の駅からも直通バスが運行されるようになり、観光客にはとても便利になりました。
11)庭園内の移動をスムーズに
宮殿の広大な庭園の一番奥にあるディアナとアクタイオンの噴水と、イギリス庭園の入り口にに到達するには、今まで徒歩で3キロ以上の上り坂を30分以上かけて登っていくほかなかったが、今は車椅子も乗せられるバスが随時運行しています。
馬車にのってガイド付きツアーに参加したり、自転車も園内で借りることができます。
12)宮殿のホームページのリスタイリングと館内見学アップの制作
今まであまりおもしろくなかった宮殿のホームページのデザインを改訂する他、館内の見学を助けてくれる「ボルボット」(ボルボーネ[ブルボン]の「ボル」とロボットの合成語)というキャラクターを開発。30代の若者4人による地元のスタートアップ会社、360オープンによって制作されたボルボットは、フェースブックのメッセンジャーを使ったチャットを通して見学者の質問に答えてくれます。
13)地方特産物のプロモーション事業との共働
フェリコーリは、今までうまく利用されてこなかった、宮殿内の空っぽだった空間を改装し、水牛のモツァレラチーズDOP保護組合本部にそのスペースを貸し出すことにしました。これは宮殿をプロモートする際に、カゼルタそのものの特産物も合わせてプロモートするという新しい展開の基盤となりました。
14)サン・シルヴェストロのぶどう園復旧事業を外部団体に委託
宮殿のサン・シルヴェストロの森の中には、ブルボン家のぶどう園があったのですが、フェリコーリはこのぶどう園の復活を実現しました。一般競争入札で落札者として決定されたのはベネヴェントのワイン生産者。15年かけて地元のパラグレッロ種など10種類のブドウが栽培されます。
15)「カゼルタ宮殿」のブランド化
フェリコーリとそのチームは、宮殿の知名度を高め、地元産業のクォリティーや革新性をプロモートするために「レッジョ・ディ・カゼルタ」(カゼルタ宮殿)というブランドを作ります。ブランド名の使用許可を得た会社、団体、生産者や職人は、その産物やサーヴィスのクォリティーの高さを保証されることになります。
16)宮殿所蔵の「テッラエ・モートゥス」コレクションをアート・フェアに参加させる
フェリコーリは自身のことを、王道ではなく「歩道を歩く館長」と定義しています。「テッラエ・モートゥス」のコレクションの常設展示の見通しがはっきりした時点で、フェリコーリはボローニャのアートフェアでスタンドを間借りし、自ら赴いてコレクションを世に紹介し、カゼルタ宮殿美術館の再生の様子を美術業界に伝えました。
17)地域社会の活動に参加、貢献する美術館
宮殿の噴水につながっている運河を利用し、レッジャ・チャレンジ・カップというボートレースを開催。歴史的な環境の中でスポーツを楽しむという新しい趣向が生み出されました。
今年第4回目を迎え、オクスフォード対ケンブリッジ、大学のボート部対抗戦は非常に話題となりました。
18)「世界遺産の旅」にも登場するカゼルタ宮殿
カゼルタの宮殿は、ユネスコの協賛を得てEUとナショナル・ジオグラフィックによって立ち上げられた「世界遺産の旅」World Heritage Journeysにも登場します。その結果、中国やアメリカからも多くの観光客がやってくるようになりました。
19)アーカイヴのディジダル化
今まで宮殿のアーカイヴの文書約30万枚がデジタル化され、そのうち8万件がインタネットで見ることができます。デジタル化、オンライン化のプロジェクトは2020年まで継続されます。
20)美術館をある地域のネットワークの中で捉え、成長企業としてみなし、あきらめずに信じること
フェリコーリのこの過去3年の仕事はアートリビューンによると#neidintornidellareggia (カゼルタ宮殿の周辺) #fiduciacaserta(カゼルタを信頼)という2つのハシュタッグに集約されているということです。この美術館に戻りたいと思う人々が増え、様々なプロジェクトにたくさんの人々が意欲を持って取り組むようになりました。南部という難しい状況の中で、人々がカゼルタ宮殿に対して諦めの気持ちではなく、やればできるのだという希望や信頼の気持ちを築き上げたこと、これこそが自分にとっても最も大切なことであった、とフェリコーリは述べています。

出典:

 

ローマ、マミアーニ国立高等学校理科系コースを卒業しました

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ローマ、プラーティ地区の国立マミアーニ高等学校
1885年創立
テレンツィオ・マミアーニはイタリア復興運動に参加した哲学者、政治家
小規模だが大変興味深い物理自然科学博物館もある


イタリアには卒業式も入学式もないので、
なんとなく、始まりも終わりもうやむやな感じがしますが、
高等学校を卒業するための国家試験は、4種類もの試験があり、
かなり大変でした。
6月に始まった試験は7月の半ばまで続きました・

まずは小論から。
文学作品、小論文または新聞記事、歴史的な内容の文章、時事問題という4種類の文章を与えられ、その中から一つ選んで、小論文を書く、という課題。
息子は政治とマスコミュニケーションに関する文章を選び、それについて書きました。

その次は専門科目の試験。
理科系は今年は数学、古典高校では古典ギリシャ語の試験でした。
息子としては物理の方がよかったに違いありません。
古典高校でも、どちらかというと、ラテン語のほうがよかったという学生も多かったことでしょう。
6時間かけて問題を解くことができます。
数学は最初に一つの大きな問題、あとは5つの小規模な問題。

3つ目の試験は、4科目の短い筆記試験。2時間。
どの科目になるかは、学校やクラスによって違うもの。
この試験は来年からはなくなるとのこと!
息子のクラスは科学(地学!)、英語、美術史と哲学の問題だったそうです。
どの科目も息子にとっては大丈夫な科目ばかりでラッキーでした!!

4つ目の試験は口頭試問でした。
この試験のために、小論文の準備し、それについて発表をまずします。
論文はいくつかの分野を合わせたテーマであることが条件です。
たとえば人間と音楽の関係、あるいは息子の選んだ詩人バイロンの娘、Ada Lovelaceのように
プログラミングの歴史、文学史、女性史について語れるようなテーマ。
そのあと、全科目について、10人の教師(ほとんどが他の高校から派遣される先生たち)の
質問(尋問!)を受けます。
こちらの質問はカリキュラムの中にあるものの中から出てくるのですが、
いじわるな先生は、それとははずれた質問をする場合もあります。
息子はラテン語の先生に、一年生の時にやったオヴィディウスについて
聞かれたそうなのですが、よく覚えていたことだったので
しっかり答えることができ、先生が感心したとのこと。

国家試験は100点満点。
25点まではとれた単位数、第一試験から第3次試験までが15点ずつで35点満点、
オーラルの最終試験が30点満点。

息子の通っていたマミアーニ高等学校理科系コースは昨年の統計では
全国一位の学校だったので、
外部の先生たちがかなり厳しく審査をしたとのこと。
100点満点を獲得した学生は例年とても少ないのだそうです。

南部に行けばいくほど、カンニングを許されたり、
先生が答えのヒントを出して点数をあげようとする傾向があり、
あまり勉強しなくても90点以上とる人が北部に比べて非常に多いらしいのです。
そういう中でカンニングをしないで
実力で望む学生ももちろんいるのでしょうが、
何とも悲しい実状です。

息子はまったくカンニングをせずに、実力で90点を取得。
クラスにはとても優秀が人が3人いて彼らは100点満点をゲット!
仲良しのフィリッポさんは96点。
息子はクラスで点数的には3番目、ということになります。
4年目はアメリカの高校で過ごし、そこでは数学のレヴェルが
あまり高くなかったので、少し数学が遅れ気味でした。
口頭試験で満点をとれたのは、女性の数学者を選んだ、という
ことも多少関係していたらしいです。
試験官は10人中、9人が女性の教員でした。









レオ・レオニを追って その3 フォーチュン誌 1962年12月号 レオの世界市場

シェークスピアは世界が舞台であると言いましたが、
レオはきっと世界は一つの市場である、と言うに違いありません。
レオは「フォーチュン」誌の特派員として1957年から
中近東、インドを旅行。
東南アジア、メキシコ、ヨーロッパにも赴き、
人間の経済活動のベースにある市場を多く撮影しました。
レオはまた、ジェノヴァ大学の経済学を卒業しているので
経済に関しては専門家でした。
ある意味で、アメリカの経済雑誌、「フォーチュン」の
アートディレクターとしては全くの適任だったと言えましょう。

ニューヨーク市歴史協会図書館に所蔵されている
Time Inc社のアーカイヴの中の、
レオ・レオニに関するフォルダーには
「フォーチュン」1962年12月号のルポルタージュ、
"The Ancient Game of Supply and Demand" 
(受容と供給という古代からあるゲーム)の切り抜きが
保管されていました。
この記事にはレオが世界中で撮った市場の写真が掲載されています。
以下、すべてのページではありませんが、
いくつかアップしてみます。


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レオのトスカーナ地方の家のアトリエに入っていくと、
友人のアーティストたちのタブローや様々なオブジェ、
たくさんの書物や画集など実に色々な物があり、
とても楽しい場所だったのですが、
レオの手の届きやすい長い白い棚には
世界で集めた小さな人形や動物、野菜や花、かごなどが一列に並べられ、
レオの「世界市場」が展開されていました。

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「フォーチュン」のこの記事を今日見て、
改めてレオの家の棚の上にあったあの忙しい市場が
どういう意味合いを持っていたのか、
ようやく分かったような気がしました。

レオは経済学を自分から選んだのではなく、
アメリカからイタリアに引っ越して来た時に
イタリアの古典高校に入学できるイタリア語力がまだなく、
仕方なく勉強せざるを得なかったのですが、
こうしてすべてのつじつまがあった、
ということなんだろうな、と思いました。

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レオ・レオニを追って その2 PENN FRUIT スーパーのロゴ 1954年頃

レオの1991年、ニューヨークのクーパー・ユニオン大学の
卒業式の演説を訳しているつもりが、またまた横道にそれてしまいました。

昨日は演説の翻訳の他に、ニューヨークでの調査の
写真資料を見るという作業を続けていたのですが、
ニューヨーク歴史協会博物館の、タイム・ライフ社の
アーカイヴの中にあったニューヨークタイムズ紙の記事で
1954年にレオが参加したMoMA美術館の「
アメリカのグラフィックデザイナー4人展」に関するものを読んでいて、
この記事を元にレオのアメリカでの活躍に関する文章をに
展覧会の説明を書いていました。

今朝起きて、MoMAのホームページから前に印刷した
この展覧会の資料を見ていたのですが、
(プレスリリースはありましたが、
展覧会出品作品のチェックリストは残念ながらありません)
レオの作品で展示されたものの中に
フィラデルフィアのペン・フルーツPENN FRUITという
当時最盛期にあったスーパーのためにデザインした
ロゴも含まれていました。
会場にはこのロゴに至るまでの制作過程を紹介したカラースライドが
展示されたようです。
(レオのお孫さんの家には、レオが残した膨大な量のスライドがありますが、
きっとちゃんと探せば、これも出てくるのだろうかと思われます)

レオはイタリアからアメリカに亡命してすぐに
父親のかつて働いていた会社を通じて、
フィラデルフィアで広告デザイナーとしての仕事を得、
10年の間にどんどん優秀なデザイナー、そしてアートディレクターとして
頭角を現して行くのですが、
フィラデルフィアの産業界にも知り合いがたくさんいて
その関係からこの仕事も依頼されたのでしょう。

はい!そこでまた横道にそれまして見つかったのが
以下のページです。
フィラデルフィアの新聞、Philadelphia Inquirer の
消費者チェックプックDelaware Valley Consumer Checkbook (
消費者が企業やサーヴィスを評価する雑誌)の1955年版の、
ペン・フルートのニュージャージー州オードホン店開店の広告です。
そこに、いかにもレオらしいレイアウトのページに、
ロゴが印刷されていました!!

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ペン・フルーツもニュージャージー進出を記念して
この新しいロゴを依頼したに違いありません。
写真の建物は、ヴィクター・グルエンのデザインした建物の
模型だということです。
このスーパーは1974年に残念ながら倒産してしまいます。
建物は現在、アクメという別のスーパーが入っているということです。

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写真の出典は以下の通りです。
スーパーの歴史に興味のある人がたくさんいるようです。
www.flickr.com/photos/42444189@N04

レオはニューヨーク・シティー大学のロゴも担当したそうなのですが、
これに関してはインタネットでは資料、
見つかりませんでした。
現在使用されているロゴの前のロゴだったに違いありません。


レオ・レオニを追って その1 フォーチュン誌について少し

レオ・レオニ、本来的にはレオ・リオンニ、は
国語の教科書にも掲載されている『スイミー』の作者。
日本では知っている人がとても多いのですが、
残念ながら、イタリアでは絵本の好きな人でないかぎり、
イタリアに長く在住していた作家であるにもかかわらず、
その名を知っている人はあまり多くありません。

1995年頃でしたでしょうか、板橋区立美術館にて、レオの個展を、レオがまだ存命中に開催され、
企画はローマの美術展センターにて子どものためのワークショップ活動の基盤と、
世界でも最も優れた絵本を集めたコレクションを開始した
パオラ・ヴァサッリと、レオを良く知っていた
グラフィックデザイナーのアンドレア・ラウクによるものでした。

レオは総合的なアーティストだったのですが、この展覧会は
レオの絵本を紹介するとともに、
それぞれの絵本で使用された技法やテーマを手がかりに、
アーティスト(油絵画家、彫刻家、版画家、鉛筆画家、モザイク作者等)としての仕事を紹介するものでした。
そして今年にはその第2弾と言った感じで、
第一弾では紹介されなかった「しられざるレオ」も含めた展示となる予定です。

レオの父親はダイヤモンド産業で財を築いた、
オランダのユダヤ人でした。
大叔父には同時、クレー、シャガール、ル・フォーコニエなど、
前衛芸術の作品を作家から直接購入していた
美術品コレクターなどもおり、
幼児期はこうした作品に囲まれて成長します。

当時のアムステルダムはモンテッソーリメソードなど、
革新的な小学校教育も盛んで、
レオもそうした小学校で教育を受け、
王立美術館でデッサンを楽しんだり、
叔父たちの知的な会話を聞いたりと、
実に豊かな少年時代を送ります。
自分の部屋にはテラリウムという、
動植物観察用のガラスの箱もあり、
部屋の前に飾ってあった、
一つの物語を語るシャガールの緑色の顔をした
ヴァイオリン弾きの絵などとともに、
これらのすべての要素は、
レオが50歳になってから描き出した絵本世界の中に
投入されていきます。

レオについて基本的なことは知っていましたが、
今回はレオの自伝を頼りに、
レオの行き来した様々な世界を現在、旅行中であります。
糸をたぐり、それをてがかりに、今回は
レオの活躍していたニューヨークにも行って調査をしました。
おかげで色々な図書館、文書館を訪れることができ、
司書さんたちにレオの違う顔に合う喜びを(一方的に)
相棒と二人で分かち合っていました。

もちろん、一つの糸をたぐっているうちに、
インタネットの力を借りて別の道にそれていってしまう、
危険とわくわくするような楽しみに満ちた旅です。

今日はレオの、タイム・ライフ社の有名なビジネス雑誌、
フォーチュン誌のことについて
寄り道調査をしている途中で、
イギリスのアマゾンでは購入できなかった
(ヨーロッパには発送をしない本屋さん)
フォーチュン誌の視覚伝達デザインの歴史への貢献、
というテーマのカタログに関する資料が、
なんと、カタログの編者のホームページで見つかりました。

フォーチュン誌は、ビジネスの世界に一つの「文学」を与えるために、
大恐慌の翌年にヘンリー・ルースが創立した雑誌です。
ビジネスマンたちを啓蒙し、その知的レヴェル、
知識を高めることを目的とした、
大判の豪華な購読雑誌でした。
発刊当時から画家、イラストレーター、ポスターデザイナー、
写真家を起用し、特に若いクリエーターにとっては
デビューの場でもありました。
フォーチュンの編集室では、若いアーティスが
ポートフォリオを持ち込むことが多く、
レオが1949年7月号からこの雑誌の
アート・ディレクターになってからも、
レオは多くの若者たちの相談に乗っていたということです。

レオは前任者のデザイナー、ウィル・バートンは、
インパクトの強いイメージを大事にし、
文章はイメージのコメントのような役割を持つ物として
考えていましたが、
レオはむしろ、文章を読ませるためのイメージの役割に注目し、
フォーチュン誌のレイアウトを非常に読み易く、
しかも見易いものに変えて行きました。
それは特に白い空間を上手に駆使することによって
得ていた効果でした。

ブログを更新することにより、赤ずきんちゃんのように
また道草をしてしまいました。
でも調査の楽しみによって得るこの興奮について、
ちょっと日本語で書きたくなったので書いてみました。

以下、レオ自身が手掛けたフォーチュン誌表紙をアップしておきます。
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1952年3月号
冷凍のオレンジジュースという、
記事と関連した、おそらくは油絵かテンペラ画によるレオの表紙画



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            1955年7月号
直接雑誌の内容とは関連性がありませんが、
夏休みに入る7月号ということで、
灰色の都会から明るいヴァカンス先へ向かっている
都会の人々がテーマです。
この号を皮切りに、フォーチュン誌のトップ企業500の
特集が始まります。

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1957年5月号
レオはノラとインドに行き、
インドの産業のルポをこの号で発表します。
写真家としてレオを眺めることができます。

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1957年7月号
原子核がテーマの表紙
巻頭記事、水素発電と原子力発電を比較した記事に
関連性のある表紙です



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1960年2月号
冬のニューヨークの、
遅くまで働くオフィスの窓をイメージしています。














第35回サルメデ国際絵本原画フェスティヴァルImmagine della Fantasia インマージネ・デッラ・ファンタジーアその2

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日伊国交樹立150周年を記念した「にほんのえほん」Visually Speaking展は、ローマ日本大使館、JBBYによる50冊あまりの日本の絵本の展覧会です。日本語が読めなくても、本をめくることによってお話が「読める」というアイディアをベースにセレクトされた、過去5年間に出版された絵本たちです。オープニングでもたくさんの親子たちが絵本を楽しんでいました。
手描きのポスターは、駒形克己さんのデサインしたロゴに想を得たのだよしこさんの作品です。

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絵本を一冊ずつ丁寧にみている人。田島征三さんの『かとりせんこう』がとても気になっていました。おもしろい絵本ですよねえ。

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展覧会の会期中、およびその前後にには、ザブレルの始めたイラストレーションに関する様々な講座がイラストレーターや絵本作家を目指す人たちのために開催されます。芭蕉と一茶の俳句をベースに一枚のイラストレーションを仕上げる講座参加者の作品の展示されているセクションもありました。

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昨年はチリがテーマ国で、チリの珍しい動物たちの絵合わせメモリーゲームのカードが作成されましたが、今年は日本ということで、何と妖怪がテーマに選ばれました。イタリアの子どもたちの間ではポケモン、遊戯王、妖怪ウォッチなどが浸透しているので、大人には分からなくても、子どもにはすぐに妖怪がどういう意味なのか、分かります。ポケットモンスターのベースには妖怪がいたのだと、おかげさまで初めて意識することができました。さすがモニかさんです!(3人の素晴らしいお子様も、とても日本に詳しいです。)こちら、むらかみひとみさんのバクと鬼、田中清代さんの河童と子哭き爺、コチミさんののっぺらぼうと轆轤首です。カードの裏にある雲の文様は、日本の図案集を多く参照の上、ELSEシルクスクリーン出版工房のルーカさんがデザインしました。もう一つ、別ヴァージョンがあったのですが、拙者息子やモニカさんたちの子どもたちも加わった多数決により、こちらに決定。

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続いて釣谷幸輝さんの雪女に天狗、山本久美子さんのダイダラボッチと座敷童、降矢ななさんの狐火と提灯小僧です。一枚にはひらがなの日本語で、もう一枚はローマ字で表記されています。見比べることにより、ちょっとひらがなの学習もできるので、子どものための日本語講座にも使いたいと思います。2色の印刷となっていますが、色の組合わせを決めるのに随分とみんなで悩みました。

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ブックショップには展示してある絵本のうちの何冊かが手に入ります。フィリップさんの絵本もぞくぞくと入って来ていました。妖怪メモリーカードには各作家と妖怪を紹介する妖怪の手引書がついています。平積みになっているのは日本民話集の絵本です。このフェスティバルはサルメデの地元のボランティアの人たちがたくさん協力していて、ブックショップでも売っている絵本の内容を説明する熱心なボランティアの人たちが働いていました。

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今年の作家30人展には移民をテーマとする絵本が5作品と、チリのイラストレーター、Francisca Yañezのインスタレーション作品が展示されました。移民たちは今でも毎日のように、命がけでイタリア、そしてヨーロパを目指して地中海を渡ろうとしています。途中で溺れてしまう大人たち、子どもたちも大勢います。今年は10万5千人の移民たちがイタリアに到着しました。ヨーロッパの他の国を目指す人が多いのですが、イタリアに残る人もたくさんいます。ローマの小学校では地域にょっては、移民の子どもたちの方が多い学校も増えて来ました。フランシスカさん一家は軍によるクーデター後にチリから亡命せねばならず、子どものときから家族とともに放浪生活を強いられていました。亡命する時に、一つの鞄の中に一つだけ持っていきたいものを入れていいと言われ、集めていたカードを持って行くことに決めたそうです。軍の監視する中、飛行機のタラップを登っていた時に鞄が開いてしまい、カードが全部風に飛ばされて落ちてしまいました。それを家族全員が階段を駆け下りてカードを必死に集めようとしている光景は心に焼き付けられ、一つの箱に収まるこの「個展」のアイディアにつながったということです。

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オレッキオ・アチェルボから刊行されたArmin Greder さんの"Mediterraneo"(「地中海」)。文字のないサイレントブックですが、ゴヤの作品のような凄まじさを持った絵が海を渡る移民たちの現状を告発します

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ザブレルさんはサルメデかた3キロ離れた山の上の村、Rugoloに住んでいました。その死後、愛するこの村の教会の墓地に葬られました。ザブレルさんもチェコの独裁制を逃れてイタリアにやってきた亡命者でした。彼が35年前、サルメデて初めて絵本原画展を始めた1980年代には、こどものための絵本に関する展覧会はボローニャの国際絵本原画展以外、あまりありませんでした。また、絵本のためのイラストレーションの学校もありませんでした。ザブレルさんの意思を継いだサルメデの人々は、子どもたちが夢を見続けられるようにと、一生懸命なのだということが心に伝わって来ました。


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ザブレルさんの描いたルーゴロの教会の扉です。


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ルーゴロの山道です。栗の木、ブナ、ヘーゼルの木が中心の森。紅葉がきれいでした。